昭和四十三年六月十七日 朝の御理解
御神訓 一、天地のことは人の眼をもて知りて知り難きものぞ。恐るべし、恐るべし。
御神訓の中の道教えの大綱と言うのがありますね。その一番最後に「天地のことは人の眼をもて知りて知り難きものぞ。恐るべし、恐るべし」とありますね。「天地のことは人の眼をもて知りて知り難きものぞ。恐るべし、恐るべし」と。確かにそうです。天地のことというのは、言うなら一寸先は闇の世というのです。分からん。いつどこで、どういうことが起こるとも限らないのが私共の世界とでも申しましょうかね。それが人間の世界なんです。
信心をしておれば、段々怖いものがなくなってくる。否、喜びと共に安心の心が開けてくる。と言うのは、そういう「恐るべし、恐るべし」という世の中に住まわして頂いておるのにそのことを知らぬから安気安穏で日々を過ごしておるのでございますけれども、段々信心が分かって参りますと本当に怖いことだということがわかる。それを、神様は有難いお方であると同時に怖いお方だということにもなってくる訳である。
そこでその、毎日がそういう「恐るべし、恐るべし」と言われるような世の中を日々、信心の喜び、それに安心のおかげを受けて生活をして行けれるというのは、勿論、天地のことはと仰るのですから、天地の心を知るというか、天地の道理を分からしてもろうて、道理に合う信心生活がなされていくところに、自ずと安心の心も、喜びの心も頂けて来るのですけれども、そういう一寸先が闇の世であると言うかね、そういう、お互い日々を過ごさせて頂くのですけども、そこに、たとえて言うなら、どのような真っ暗い中にあっても、それからと言うて、その「恐るべし、恐るべし」と仰るからもう日々が、言うなら戦々恐々とでも申しましょうかね、びくびくしながら過ごす。薄氷の上を渡るような思いで過ごすというのも、これは信心頂いておって始まらん話である。そこで、なんとか安心して、喜び一杯で過ごしたいと言うところに、私共の願いがある訳である。
訳は、例えば分からんに致しましても、その暗い中を私共が信心によって受けられる信心の光。隅田先生は「信は力なり」と言われますね。その、「信は力である」と同時に又、「力は光である」と私は思うんです。「信は力である」その力は又、光である。その光を身につけていく。光を頂いていくところに、家のなかでも真っ暗だと、ここのお広前でありますとね、真っ暗い中は何とはなしに気持ちが悪い。夜中に電気も付けずにこの長い廊下を行くのはあんまり気持ちのいいものじゃない。けどもそこに、電気がパ-ッと明るくついたなら夜も夜中も一つも怖いと思わない。同しとこを通っているんだけどね。やはり、信心の光というものが、いかにお先は真っ暗であるとか、一寸先は闇という中を通らして頂くでも、信心の光を身に付けていくことによって、足下も間違いなく、こけることもなく、間違いも起こらず、横にはどういうものがある事が分かるのですから、その恐るべしと言われる世の中も恐るべきものでは無くて有難いということになる。
ここにですね、北野の中村さんがよくお話になる三代吉さんのお話が出てくるですね。あれは親鸞上人様のお話の中にある仏教で解かれるお説教なんです。毎日毎日上人様のお話を聴聞に参ります。毎日毎日、いつも顔見知りになられた上人様が三代吉という町人に向かって、「毎日毎日こうしてお話を聞いておるが、それを頂いただけではいけない。その頂いた、言うならおかげをとんと落としてしまうようなことになっては詰まらんぞ」という意味のことを言われた。その時に三代吉さんが上人様に答えておること。「落ちるこの身は十八願のうちと思えば危なげは無し」と答えたそうです。仏様の願いというのが四十八あると言われております。この世の中は、その仏様の願いが満ち溢れた世の中である。それはよし、地獄道であっても、やはり仏様のお懐の中だという意味なんです。地獄でも極楽でもやはり天地より他に行くところはないのだ。まぁ、お道流に問えばそうなんです。どこに居ろうが神様のお懐の中だ。どこに落ちたからと言うて、その落ちたところも、やはり神様のお懐の中だと答えたのです。まぁ、大変な悟りですね。神様の思いの中に落ちるのだ。上人様もやはりびっくりされたでしょう。毎日毎日、そうしてお話を頂きにくる訳です。大変なことを悟った信者じゃと思われたに違いない。
そこで、それ程のね、それ程の悟りを開き、それ程の思いが開けておるのならば、尚更のこと毎日毎日参ってこんでいい。こんなに毎日毎日参って信心の稽古をせんでもいいという訳です。それに答えて又、三代吉さんが言っておられる。毎日毎日、このようにして親様が私共の為にお御苦労下さっておる。親様と言うのは、その上人様のことでしょう。上人様がくる日もくる日も、難儀な氏子を取次ぎ助けることの為に毎日毎日お御苦労下さっておるのだと、お道流に言えばそうでしょう。毎日毎日このようにお御苦労下さっておることを思いましたら、とても、家でじっとしては居られませんと、答えたというのです。家ではじっとしておられんのが、言うなら、こうしてお礼参拝にもなり、信心の稽古にも通うて来ることになるのである。
どうでしょうかね、皆さん。家にはじっとしては居られんというのが、この修行であり、このお参りである、この聴聞である。聴聞というのは教えを聞くことです。信心ちゃこんなものだと分かったら、もうその上にあぐらをかいて動こうとしない人がある。これはお道の信心に大変悖った、言わば、横着な心と言わなきゃならん。
実意丁寧神信心がお道の信心の生命である。信心ちゃこれより他はないがの、信心とはこうだと、なるほどこうであろう。分かっておる。いわゆる落ちるこの身は十八願の中と思えば危なげは無しというように大きな、例えば大きな悟りが開けておるとするならです、それはそうどころではないのですけれども、そこに信心の限り無い、信心の進展とおかげの、又限り無い展開がある訳であります。親様のことを思うたら家にじっとしては居られませんと、ぬくぬくと布団のなかで寝ておる訳にはいけません。もう今頃は親様が起きてござる。もう今頃は御祈念がありよる。今頃は御理解がありよるだろうと思うたら、もう家にはじっとしては居られないというのである。
ここにです。例えば、「恐るべし、恐るべし」と言われる世の中も恐るべしじゃなくなってくる。そういうものを頂けるというか、神様との間に交流してくるというか。ですから、私どもが無信心である時に「恐るべし、恐るべし」である。そりゃ私共でも、日々がです、戦々恐々、びくびくして過ごすときのある。またこれもまた有難いですね、本当は。神様がああしちゃいかん、こうしちゃいかんぞと、言われておることを、生身を持っておりゃついお粗末になる、御無礼になる。そう自分で感ずる。ですから、神様が怖い方だと分かれば分かるほど、やはりそれでも、縋らなければ居られないから縋っておるけれども、何とはなしにびくびくしておる。カチッと大きな音がしただけでもヒヤッとする。一つの物音にでも脅えるようなことである。これはしかし有難いですね。けれども、それは、私共のお粗末御無礼であると言うことの自覚に立つから、そうで御座いますけれども。私共、日々信心の稽古をさせて頂いて、本気で、御教えに添う生活が出来るところにびくびくした生活。そのびくびくも又、ある意味で、それが過ぎるということになるかもしれませんね。やはり、一遍信心のスリルという物を体験してみるのもありがたい。私共はちょいちょいそれがある。それ程にお粗末御無礼者であるということで。それをもし、びくびくしてないという人がもし、合楽であるなら、それは大変な信心をしておられるか、でなかったら横着者です。と自分で思わなきゃいけん。かと言うて、いつもかつもそうじゃいけん。それこそ有難い、勿体ないの中に、所謂信心に基づくところの光をもとに生活が出来るという有難さに浸らせて頂くということは勿論なからなければなりません。
ですから、段々分からせて頂くとですね。例えば、これ一切神愛と悟らせてもらうということなどは、これは「落ちるこの身は十八願の中と思えば危なげは無し」という悟りです。けれどもここに思うことは、落ちるこの身は十八願の中と思えばという、その堕ちるところが地獄であるよりも極楽であるほうがいいのでしょうもん。まぁ叩かれるよりもさすられる方がいいでしょうが。私共の願いとして。又神様の願いもそれである。
難儀苦労さして頂いておるよりも裕福な生活をさして頂くことの方が、私共の願いであると同時に神様の願いも又そうである。地獄の中にあっても、神愛を悟らしてもろうて、そこから「苦しゅう御座います、けれども有り難う御座います」ということも、信心でなからなければ言える境地じゃないですけれども、それよりもこのようにおかげを頂いて良かろうかというように勿体ないおかげを頂くということのほうが、実を言うたら私共の願いなんです。
そんなら本気で、いよいよ天地の心を心としてとでも申しましょうかね、神様の願いを願いとして、神様の心を心としての頂き方。天地の思いを思いとしての、思いに添わしてもらう生き方をさしてもろうておかげを頂かねばならん。簡単に言えばそれだけのことだけれども、実は難しい。
そこでひとつ御理解四十八節を読んでみましょう。四十八節、御理解四十八節。「わが子の病気でもかわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬときにままよと思うて放っておくような気になって信心してやれ、おかげが受けられる」これはもう、信心の機微とでも申しましょうかね。おかげを受ける一つの、実にデリケ-トな心の動きをキャッチしてあるみ教えだと思うですね。だから難しいのである。信心は難しいというのはここが難しいのである。かわいい自分の子供が、ここに、それこそ瀕死の重体であると致しましょうか。一時だって枕許から離れられんのが親の心である。けれどもその時に、かわいいかわいいというて枕許から離れ切らんようなことじゃおかげにはならんぞと仰る。さぁ、今取上げの真最中でこげん忙がしかつに、どうして夏の修行がありよるからというてお参りが出来るもんか。同じ事。
そういう時にです、そういう時にままよという心になってとか、子供が言う事を聞かん時に、もう知らんぞと、もうお母さん知りませんよと、そげん言うこと聞かんなら、と言うて突き放すような心持ちで放からかせじゃない。そういう心持ちで神に縋ってやれ。「放っておくような心になって信心してやれ」とこう仰っとられる。そこからおかげが受けられる。これはもう、おかげの道の、何と言いますか、こういうこつあいなんです。おかげを受けるこつあい。信心の、所謂おかげを受ける機微である。ところが、それも聞けば、はぁそうですかというだけのことだけれども、さぁ実際自分の身になってみるときには「そげん言うたっちゃ、こげん忙がしかとに」、「それでっちゃ子供が何時息を引き取るか分からん時に、親として、どうして枕許をはずられるか」というのが人情である。その人情も擲てとこう言う。難しいというなら、そこが難しい。けれどもね、今日私が皆さんに言う、そういう信心からしか信も生まれてこなければ、光も頂けないということ。
信は力である。力は、即光である。その光を生むことができる。これは信心によらなければ、そういう、場合によっては、そういう厳しい厳しい信心の稽古。日々一生懸命、こうして信心の稽古をさしてもらう。そして、例えば、そこに稽古の仕上げのように、さぁ右にしようか、左にしようかと思うようなところに直面したときに、右にすることが、左にすることが、本当かという答えを出していく。ここは一番神様任せにならせて頂く時だ。ここはままよと思うて放っておく時だと分からしてもろうて、それを稽古していくのである。そこにいよいよ信ずる力が頂けるだろう。勿論それが力にならん筈がない。それがお徳にならない筈がない。そのお徳、それがそのまま光である。徳はまた、光なんだ。その光に集まってくるもの。それが、限り無いおかげである。光によって、私共が生活さしてもらう。そこには、怖いはずの世の中が怖く無くなってくる。そうして、尚且つ、私はですね、自分というものをぎりぎり、本気で見極めさして頂いて、どこにお粗末があるやら、ご無礼があるやら、相分からんというような、信心もそれに相まっていくところに実意丁寧神信心ができる。
これだけのことができよるから、これだけの修行をしよるから、もうどのようなことがあってもびくともせんですむ、何時でもままよの心に成れるからそれで事済んだというのじゃ無い。そこが生身である。
「うろたえるといけぬぞ」とこう仰ってある。うろたえるといけぬ。そういう時にうろたえたらいけん。教祖はそこんところを「いけぬ」と仰っしゃっている。そういう時にうろたえんですむ。「さぁどうしょうか」とお願いにくる。お広前に着かして頂いた。途端に何かしら心に開けることがある。腹が決まる。お取次ぎを頂いた。親先生の一言で腹がはっきり決まることがある。所謂ままよという心が決まる。それがおかげにならない筈がない。
私共が日々信心の稽古をしておると申しましても、いよいよのときにその腹がすわらんというか、ままよという心が出せないような事では、日ごろのトレ-ニング不足である。いよいよの時に落第するような事であっては稽古の値打ちがない。本気で日々稽古に取り組んでおかんと、そこんところが、ややもすると楽なほう、楽なほうを取ろうと致しましたり、身勝手なほうを取ってしまう。それでは、やはり光は頂けない。力もつかん。ただ、だら-っとした稽古が出けておるだけに過ぎないようなことではならん。
段々信心が分かって参りますと、もう親先生が言わっしゃる事はわかっとる。もう一切神愛と悟ったら、それで良かっちゃろうと。そうなんですよ。そうどこじゃないのですよ。信心しておれば、もう絶対、どういうとこに落ち込んでも、それを神愛と悟れたら、そこから又、今まで頂けなかった力も、光も受けられるのが信心なんです。ですから、一切が神愛と悟ったからもうそれでよいというのは、もうこれだけの話が分かった。これだけのことが信心も分かったからもう参ってこんでもよいぞという上人様のお言葉と同じこと。そこで私共が、神様との交流というか、金光大神との交流というか、親先生との信心の繋がりというものが、そこに密なるものがどうでも育ってこなければならないと言うこと。それはそうでございましょうけれども、今頃はもう、親様が起きて御座ると思うたら、親様がもうご修行に掛かって御座ると思うたら、家でじっとして寝てはおられませんと言うところの心情と申しましょうかね、が出てくる。そこから信心が楽しいものになってくる。楽しい信心の稽古ができてくる。そこから、限り無いおかげにつながる信心の光と申しましょうかね。
確かに分かれば分かるほどこの世は怖いものである。何時どのようなことが起こってくるやら分からん。それは必ずしも天変地異といったことだけではない。何時どこでどういうことがあるやら分からん。それが私共の人の世である。そういう難しい人の世に住まわして頂いておる私たちが、喜びいっぱいで過ごさして頂こう。足下もはっきり分からしてもらえれる道を歩かせて頂こう。この道を行けば、必ずおかげに到達するのだ、極楽に行けるのだという道をですね、間違い無くここを歩かして頂こう。
昨夜、原さんところの恒例の宅祭りが御座いました。本当にありがたいお祭りでした。御神前に額づかせて頂きまして、一番初めに頂いたのが、キリスト教の会堂の一番上に鐘が掛かっているでしょう。こうして、一生懸命に振れておるところです。あれは鐘自体が動くんですね。そしてこう、カンカンカンカン鳴っているんです。次に、お寺さんの鐘楼、釣鐘を頂くんです。そして、私はそれを頂いて思うんですよ。あの教会で打ち鳴らすかねの音を聞いてね、それこそ、誰一人だって、「あぁやかましい、又鐘が鳴る」という人は一人もなかろうと思う。お寺さんのあの余韻を聞いて、打ち鳴らされる鐘の音を聞いて嫌だなぁと、言うものは一人もなかろう。どういう信心の無い人の心にでもそれが染み渡るように、なんとはなしに有難いものが染み渡っていくような感じがするじゃないか。それは、例えばキリストの愛の心がね、あの鐘の中には、祈りが込められておるからだ。仏の慈悲が、あの釣鐘の鐘の中に込められておるからだ。愛が慈悲が、お道で言う、言わば神心。お道の信心で言う神心というものが、心の内容にあるときにそこから打ち鳴らされるもの、そこから出る言葉、態度、それに触れて皆が感動しないはずがない。もしそういう感動を与え得ないならば、あなたの心の中に愛情が欠けておるからだ。と言うような御理解だったんですね。
私共の心の中にはそういうお寺さんで、又会堂で打ち鳴らす、あの鐘の音にも似たような音色が出るような内容。そういう例えば大変なものを目指してのお道の信心。いわゆる神心を目指しての信心。言うならば、信心とはわが心が神に向こうて行くのを信心というのでありますから、そういう稽古でありますから、もうこれだけ分かったからもうこれでよいということがあって良かろう筈がない。それは分かるでしょうが。そういう有難いものを心の中に頂かして頂きながらの日々。そこに頂けるのが信心の光である。光があれば「一寸先は闇の世である」というような世の中に住みながらも、信心の光によって足元を照らすことのできる、怖いと思うものもなくなってくる。おじけることもない。そこを有難い、勿体ないで通り抜けさして頂けれる。それがお互いの信心の願いでなから無ければならないと思うんです。
天地のことは人の眼をもて知りて知り難きものぞ。恐るべし、恐るべし。と結んでおられます。その「恐るべし、恐るべし」と言われる世の中に住まわして頂いておる私達。それを信心がないと、恐るべしと言うことですらが分からない。信心によってそれが分かる。だから場合によっては、本当にびくびくするような、冷や冷やするような日々を過ごすこともある。それは生身をもっておるから、お粗末御無礼と分かりながら、お粗末御無礼が犯されていくところに自分の心がひやひやするのである。冷や冷やすることも又、冷や冷やしながらも「金光様!」とお縋りができるところが、信心は有難い。薄氷の上を渡るようでありながらも、有難い。「金光様!」と、薄氷の上を渡っていくから、そういう時には絶対、本当言うたらね、そういう冷や冷やするときにおかげを落とすことは絶対無いです。信者が「先生!どうしましょうか」というて真剣に向かってくるときなら、もう大安心と、神様仰る。けれども、「もうこれだけのもの頂だいとるけんで」というような時こそが、その氏子が危ないときであるから、あぶないんだ。こう言う、例えば薄氷の上に立っております。もうびくびくです。先生どうしましょうか。と言うて、本人自身がびくびくしておるときならばね、もう本当言うたら大丈夫なときなんです。信心はそこが有難いですね。
昨夜、原さんところでお話し申しましたように、上人様が仰っておられる「善人でさえ助かったのであるから、悪人においておやである」。罪の深いもの、お粗末御無礼者であれば有るほどにかわいいというのが親心であるから、漁師も助かり狩人も助かることのできるのがこの道だと親鸞は説いてある。天地の親神様がそうなんです。屑の子ほどかわいい。そこにお粗末御無礼を一杯持っておる私である、言うならば分かれば分かるほど、びくびくしたような日々を過ごさなければおられないほどのお粗末御無礼者ではあるけれども、それでも縋らなければおられない。そこにね、神様の救いの手は何時も差し伸べられておる。一遍あれは打ち込んでみらにゃ分からんと言ったような冷淡な考え方、冷淡な思いをなさる神様ではないということ。同時に、神様にも喜んで頂く信心。もうあの氏子は大丈夫。いわゆる有難い、勿体ないの生活に入っていく氏子はそういうことになってくるだろうとこう思うですね。
どうぞ一つ、そういう、私共には両面がある訳ですね。場合によってはびくびく、それも信心の、実にすばらしい実感である。神様有難いお方であるけれども怖いお方でもあると分かることなんだ。だから、そのどちらを通っておっても有難い。けれども、御理解四十八節に出てくるような、「うろたえてはいけんぞ」とこう仰る。「いけぬぞ」と仰るところを私共が「いけぬもの」として行けるおかげ。いけぬぞではない、そこのところを改めていくおかげを頂いていくことが、より有難いことになる訳です。
合楽のおかげ。言うならば、神様も安心して下さり、神様も極楽なら、私共も極楽。それが合楽である。そういうおかげを目指しての信心。どこまでも、私の心が神様に向けられる。もうこれで済んだと思いません。これで良いとは思わない。限り無い、そういう信心の精進がね、いよいよ望まれておる。
夏期修行が昨日から入りました。特に、一時の御祈念を皆さんで一生懸命なさいます。本当にこのお広前が割れるような勢いで、皆さんが御祈念会に参加しておられます。昨日はああいう中にあってね、二人の、病人さんと言うとあれですけども、本当に二人の具合が悪かった人がね、あの御祈念会におかげを頂いて、御祈念が終わる頃にはもう、すっきりおかげを頂いたと言うておられた人があるんです。内田さんと、久留米の野口さんのご主人がそうでした。そういう、例えば雰囲気がね、ここに醸されてくる。いわゆるここにできてくる。そういう有難い雰囲気をね、私共が頂いて帰れるということがね、私は有難い。
若先生が、昨日言うておりました。親先生が言われたように、昨日、善導寺に行ってからでした、一生懸命にあの御祈念をさしてもらうということは、一生懸命に御理解を頂いて、心の中に安心ができるのと同じに、一生懸命にあの汗水を流してから、一心不乱に御祈念をした後に、こういう時ならね、そのしばらくではあろうけれども、こういう時ならどういうお取次ぎをさして頂いても大丈夫という気が致しました。と言うことを言うております。
あの御祈念の後には、そういうものが生まれてくる。いわゆる安心の光がね、ここにパッとつくようなものです。そういうものが溜まり溜まって、おかげを頂いていく訳ですね、どうぞ。